具体的に言えば論調、文脈が似てくる。
多かれ少なかれ人にはそれがあり、私もそうで、最近に読んだ本などの調子がどうしても移ってしまう。
言葉の捻出、特に口語におけるそれが恐らく不得意で、会話において無言の逡巡を多発してしまう。
喉まで来た瞬間に、「本当に発して良いのか」、と自問してしまう。
それで取っ付きにくい人、話が弾まない人、とされたケースは多々あるはずだと思っている。
仕方がない。
意識はしている。
人の文脈を借りることで割とその苦手意識をある程度解消できる。
筆に勢いが出る。
たいして読書家ではないくせに、散読というか、併読癖があるのでパクり方もぐだぐだではある。
しかも飲まないと喋れないように、書くときは酒が入るので、一層混濁したものになる。
常時、最低三冊は代わる代わる読んでいる{(風呂トイレ、枕元、鞄の中)(長編、短編集、エッセイ)などの分類による}が、現在のスタメンのエースで四番は東海林さだおの「丸かじりシリーズ」になる。
北方謙三「水滸伝」を継いでいる。
ショージに形容された登場する食べ物たちは、軽妙に調子良く、奥行きと重さと温度と湿度を伴い、後はもうとにかく、口に含ませたらええじゃないか!という気持ちにさせられる。
そんな中で蕎麦屋で酒を飲む話があり、当然酒が飲みたくなる。
文中蕎麦屋で酒といったら江戸っ子よろしく日本酒になるのだが、こちとら島酒べらんめえの世界な訳で、ヤマトの風情を感じつつ泡盛の味に合うあてという矛盾の解題に、日曜朝っぱら、いざサンエー(沖縄のスーパー)へ。
目に留まったのがサンマであった。
沖縄のスーパーにて三陸産の生サンマが100円未満で売られている豪腕。これを二尾。
久しぶりに登場する日本鋼の包丁を研ぎ研ぎ、三枚におろしてやる。
おろしたからには身は刺身で。
背骨およびその周辺は丸ごと食べられるように良く焼き煎餅に。
共に焼いた頭はさらに、高温の油でからりと揚げる。
これをつまみながら書いているわけだが、ぼちぼち自分の意識が混濁してきた。
酩酊してきた。
当初描いていたオチを失念した。
そして思い出す気にもならない。
以上の文章構成比を現在の散読作家別に茶碗蒸しのレシピ風で例えるならば(重量比)、
毎晩枕元の東海林さだおで取った出汁1カップに、
トイレの松本清張が産んだ卵一個を割り入れ溶き、
薄口醤油適宜、程度の自我は残っているとして、
塩は読み始めの熊谷達夫少々、
これを合わせてザルで濾してきめを細かくして泡を取り除くが、多分このザルは、星新一であろう。小学生で初めて読んでから飽きたことがない。
こうして蒸し上がったぷるんぷるんな物体は、なんとも不味そうだこと。
苦手意識の克服は難しい。
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